428 封鎖された渋谷で攻略記事

加納 10:00~11:00

  • あと2分。
    頭の中で呟いた。
    秒針のゆるやかな動きがたかぶった加納 慎也(かのう しんや)の神経を逆なでする。
午前9時58分。
知らず知らず眉間に皺(しわ)が刻まれる。
決して神経質なわけではないが、といって楽観的な性格でもない。
緊張をほぐすことはなかなかに難儀なことだった。
  • 失敗は許されない。
    なぜなら・・・・・

  • この任務には人の命がかかっているのだ。


周囲に目を走らせる


  • 相手は本当に現れるのか?


いつ?
どこから?
どうやって?

  • 渋谷のスクランブル交差点は、今日も切れ目のない雑踏で覆いつくされている。
    しかし、道行く人々の誰もが気づいてはいなかった。
    この人ごみに無数の刑事たちが紛れ込んでいるということに--

「あと・・・・1分30秒」

  • 再び時計に目を落とす。
    先ほどからたった30分しか経っていない。
    加納から渋谷署刑事課強行犯係に配属されてようやく一年が経つ。
    これだけ大規模の捜査に加わるのは初めてのことだった。
加納の視線の先にひとりの女性が立っている。
雑踏に埋もれてしまいそうな小柄な身体に無骨なアタッシュケース。
  • 大沢ひとみ、19歳。
    彼女が握っているアタッシュケースの中には、5000万円の現金が入っている。
    昨日、何者かによって誘拐された双子の姉、マリアに対する身代金だ。
    犯人は昨夜のうちに、ひとみを名指しでハチ公前に立たせるよう、被害者宅に電話で指示していた。
間もなく指定の時間だが、まだ何の動きもない。
「おい加納」
睨みつけるように秒針の動きを追っていると、路上に座っていたホームレスが小声で呟いた。
  • 「お前、時計チラチラ見すぎだぞ。犯人に感づかれたらどうする」
    言われて初めて加納は自分のミスに気がついた。
    つとめてさりげなく時計から目をそらす。
    「緊張しすぎだ。もっと力抜けって」
    ホームレスがまたささやく。
「・・・・笹山さんこそおかしいですよ。ホームレスが話しかけてきたら」
お返しとばかりに加納はホームレスに文句を言った。
笹山 裕二(ささやま ゆうじ)は渋谷署刑事課の巡査長で、加納より5つ年上の先輩だ。
張り込みの現場にはいつも必要以上に力を入れた変装で現れる。
  • 捜査のためというのが本人の言い分だが、署内では「ただの変装マニアなのでは?」と噂されている。
「なぁ、旦那ぁ。小銭貸してくれよぉ」
突然、笹山が加納にすがりついてきた。
「ちょっ・・・・やめてください。」
役になりきってか、ひどい体臭だ。
「どうだ?これならおかしくねえだろ?な?」
離れようとしても、しつこくまとわりつく。
「・・・・笹山さん、真面目にやりましょう。」
  • 緊張の極みにある加納とは対照的に、笹山は天晴れなリラックスぶりだ。
    もっとも、それには理由があった。
所轄の刑事である加納たちは、引渡し現場のハチ公像前から少し離れた場所に配置されている。
ハチ公像の周辺は、本庁特殊犯捜査一係選り抜きの捜査員によって固められていた。
加納たちの役割は、あくまでも犯人が逃走した場合に備えてのバックアップなのだ。
  • 「ま、力抜いているくらいがちょうどいいんだよ、俺らは」
    そう笹山がうそぶくと無線が入った。
『・・・・指定時間だ。
各捜査員は周囲を警戒、不審な人物に注意しろ』
  • イヤホンから飛び込んできたのは、本庁の管理官である久瀬 宏二(くぜ こうじ)の声だ。
    去年までは渋谷署刑事課の課長で、加納たちの上司だった人物である。
    「いつ犯人(ホシ)が接触してくるかわからん。油断するな」
    久瀬の低く渋い声が耳に残った。
「まだ余裕の声だな。久瀬さん」
笹山が言うと加納は苦笑した。
指定の時間を過ぎたが、それらしき人物はやってこない。
ばんっ、と加納は自分の太腿を叩いた。
スーツ姿ではわからないが、鍛え上げられた両腿は鋼のようだ。
  • 捜査は何が起こるかわからない。
    いつ自分の出番がきてもいいよに、集中だけは切らないようにする。
誘拐事件の場合、初動捜査で方針が決まってくる。
犯行の動機が営利なのか、あるいは怨恨によるものなのか。
それによって犯人への対応も変わるのだ。
  • 初動捜査による捜査本部の見解は・・・・。
    犯人は複数犯の可能性が高い。
    営利誘拐のプロによる犯行ではない。
    怨恨の線は薄いが、被害者家族とはなんらかの面識あり。
    と、いうものだった。
その結果、現場にやってきた人物は、即座に確保することになった。
身代金を入手した上で逃走されると人質の安否が危ぶまれると判断したからである。
  • 「しかし、なんの動きもないな・・・・」
    笹山がぽつりと呟いたときだ。

『来た!来たわよ!』

  • ドスの利いたオネェ言葉の主は誰であろう、久瀬である。
    「20代の男!バンダナ、オレンジのトレーナーよ!」
    久瀬は普段は冷静で無口なのだが、緊張するとついオネェ言葉になってしまう。
    久しぶりに聞く久瀬の本気に、加納と笹山の気持ちは引き締まった。
近づいてきたのは、20代前半の男だった。
何気ない態度でひとみに話かけてきた。
『いいこと?各捜査員、確保の用意よ』
久瀬は交差点から少し離れた指揮車両にいる。
現場の様子は撮影班から送られてくる映像でチェックしていた。
  • 若い男は盛んにひとみに話しかけている。
    犯人・・・・だろうか?
間違いない、犯人だ!
加納は一歩踏み出した。
まだ状況がよくわからない。
ここは慎重に様子をみよう。
  • 「・・・・違ったみたいですね」
    心なしか声が強張る。
    一気に高まった緊張はすぐには解けなかった。
    ナンパってとこだろ。
    あのお嬢さん、かわいいからな・・・・」
    確かに、ひとみはかなりかわいい部類に入るだろう。
「や、やめてください、捜査中ですよ」
「これも捜査の一環だ」
とうとうポケットから携帯電話が取り出された。
  • 待ち受け画面を見るなり、笹山は呆れた顔をした。
「なんだこれ」
「いや、その・・・・」
「これ長濱まさみじゃねえか」
加納は観念して紹介することにした。
「それが俺の彼女です。名前は留美(るみ)って言って・・・・」
笹山は話の途中で口を挟んだ。
  • 「いやこれ長濱まさみだろ?これは長濱まさみです。」
「だから・・・・」
「お前、気持ちわりーな。長濱まさみを彼女って」
「確かに留美はちょっと長濱まさみに似ててですね・・・・」
そこまで言うと、笹山がムッとした。
「お前、馬鹿にしてんのか?」
「馬鹿にしてませんって」
正直に話したのに、笹山はまったく信用しようとしない。
「じゃあ結婚してみせろよ」
結婚と言われると口をつむぐしかなかった。
  • できるなら、加納もすぐに結婚したかった。
しかし、それには乗り越えなければならない事情があった。
「もういい。おふざけは終わりだ。捜査に集中しろ」
素っ気ない口調で言うと、笹山はひとみに視線を戻した。 加納は不満げに小さなため息をひとつついた。
しかし、いくぶん緊張が和らいだのも事実で、それについては笹山に感謝するべきだろう。
  • 若い男が接触してから数分が過ぎた。
ひとみが辛そうな顔をしている。
一万円札が5000枚で重さが約6キロ。
加えてアタッシュケースの重さも加わっている。
女の子の華奢な腕で持ち続けるのはきついはずだ。 しかし、ひとみはアタッシュケースを路上に置こうとはしない。
そんな態度からは姉を助けたいという気持ちが痛いほど伝わってくる。

この誘拐事件が発生したのは、昨日の午後7時のことだった。

『警視庁より通達指令。渋谷署管内で略取事件らしき所在不明事案の発生。現場は緑山学院(みどりやまがくいん)大学付近のレストラン『LLダイナー』。被害者は同大学の学生で大沢マリア、19歳。レストラン付近で男ひとりにより、無理やり車で連れ去られた模様。付近巡回中の各員は、現場に急行せよ』
  • 窃盗事件の捜査で神宮前5丁目ないた加納と笹山も現場に向かった。
加納たちがレストラン『LLダイナー』に到着したのが7時15分だった。
ほぼ同時にやってきた所轄の捜査員たちによって、現場保存のために店舗及び周辺道路への立ち入りが規制された。
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